下町にある違法建築で「おれはポルノと戦わなきゃいけない」って100回ぐらい口にした

心の中にある途方もない怒りや小さく小さくなるよう日々押し殺している性欲の昇華方法がわからなくて、ゴイステの「愛しておくれ」のドラムに合わせてベッドの上で頭を振ったり地団駄を踏んでいたら、お笑いサークルで出会った大学時代の後輩から着信があった 派遣のバイトでクレープを焼きすぎて20枚ぐらい自分で処理することになってもう金輪際クレープの顔なんか見たくないという話から始まって、最終的には「櫻澤さんに会って話したいことがあるんですよね」というグラデーションで見事に着地した 極めて繊細な話だと思った 人が大事な話をする前の、前座みたいなトークはファニーで柔らかい内容が多い 和ませるためだ 最初から重い話をするのは気が引けるのだろう 父親がリストラの話を切り出したときも同じだったような気がする 自殺か逮捕かお金かコンビ組みませんかかなと思った あるいは助けて…とか 急いで支度をする ああ昨日のうちに風呂に入っておけばよかった 全く、「異性とお酒に溺れてたい 寝ても醒めてもずっと思ってる」などと呟いている場合ではないのである 2時間後に駅前で落ち合う 「せっかくだし近いのでぜひ」と、家にお邪魔することに 通りから1本入ったところにある静かで落ち着いた木造2DKの畳の部屋には、文豪と呼ばれる人たちが書いた本が散乱していた 気遣って出してくれたコーヒーを啜りながら喋っていると、「それではまもなく出発いたしますので、お客様は集合場所までお願いします!」 と言い、それを合図に突然ルームツアーが始まった もちろん遅れないよう集合場所(引き戸の玄関)に向かう お客は自分しかいなかった ツアーガイドは、この3面鏡は亡くなった祖母から譲り受けたんですとか、このヴェロキラプトルのフィギュアはそこの国立科学博物館の恐竜展で一目惚れして買ったんですとか、知ってます?こんなにかっこいい生物が今から約8000万年前に生きてたんですよとか、そんな話をたくさんしてくれた どうやらこのルームツアーは白亜紀にも連れていってくれるらしい その流れで、先程から気になっていた、壁際にある特徴的なライトについて質問する 「この家古いんですけど、大昔、今でいうピンサロ?とかだったみたいで、ほら」 そう言いながら、メインの電気を消して少し高い位置にあるステンドグラスのランプをつける きれいな赤オレンジが部屋に灯る こちらを見つめる頬にも色が乗る 真っ直ぐなその瞳にたじろいで、目線を後ろの鏡に移してしまう 肩越しに見える年季の入った鏡台は、空間を3つに裂いて、少しずつ異なった角度で相手の背中をありのまま映している  しばし無言が続いた後、どちらからともなく、互いの体温がわかるほどに少しずつ近付いていく シンとした部屋の中で唯一、互いが距離を詰めるための、畳の擦れる音だけが無機質に響く 床の文豪たちは慌てて目を逸らす 映画ならきっとここでカットが切り替わる 完全に蚊帳の外となった台所の蛇口は、構ってほしそうにシンクに溜まった食器めがけて水滴を1粒落とす ピチョン かわいげのある破裂音が鳴る 同時に水紋が等間隔に、ゆっくりゆっくりと広がっていく でも、もう今の彼らには音や波は届かない そんなものは届かない 届くはずもない

午後10時すぎ 夜が更ける わずかに残っていたコーヒーを飲み干そうと、カップに口をつける コーヒーはすでに冷たく酸化していて、なんだか化石みたいな味がした

 

 

少し先にあるアメ横の通りでは、春模様に浮かれて酔い潰れている人や介抱している人たちの頭上で、国立科学博物館の特別展の幟が、強く、強く、はためいていた