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昨日人と飲んでいるとき、映画ドライブ・マイ・カーの「僕は正しく傷付くべきだった」というセリフがずっと頭から離れなくて、明日必ず観ようと思った

 

僕はもっとちゃんと、逃げずに正しく傷付くべきだった そうすべきであった やり過ごすことなく、本当をその場その場で見極めて人に思いを伝える必要が自分にはあった ちゃんと、自分の言葉で、自分の感じたそのままにイエスやノーを伝えることが心底怖かった ずっと怖かった それが相手に対して失礼であると、早くに気付くべきであった 否、気付いてはいるのかもしれないが、20数年間自分を殺すコミュニケーションばかりをとって楽をしてきた自分にとって、それはむつかしいことであった これはきっと天罰だと思う そうに違いない 狡い会話術ばかりしてきたから、今ツケが回ってきたんだ

昔から、優しさとは能動的なアクションをしないで息を潜めることだと思っていた(今も思ってしまっている) けれど、真の優しさは自分の意思を他者に主張することだと気付いたときには、決まってもう取り返しがつかない段階まできていた 作中の家福のように

僕はずっと性格が悪かった 今も昔も、他人ばかり注意深く観察していた こちらが黙っていると、他人は欲求を肥大化させてゆく そういった人を見ては、この人はどこまで傲慢に、自己中になっていくのかを観察してきた 果たしてどこまで傲慢になるのか、どこまでいくのか、気になって全てを許した でもそういう生き方は精神衛生上よろしくないことにやっと気付いた 相手の肥大化と自分の容量のチキンレースはよろしくない方向にしか進んでいかない

僕はもっとちゃんと、ウソの優しさで塗り固めた自分の不誠実さに目を向けるべきだったし、愛されていないことにいい加減自覚的になるべきだった 見ないフリや気付かないフリをすべきでなかった 苦しい、苦しい

僕はもっとちゃんと、逃げずに正しく傷付くべきだった